津波被害の南三陸町防災対策庁舎跡、石巻大川小学校跡で涙

画像3月15日、農業短大園芸科の“大人の修学旅行”2日目、宿舎のホテル観洋を午前9時に出発。南三陸町で大震災の語り部をしておられる阿部長記さんに同行していただき、南三陸町での津波被害がどのようなものであったのか、志津川小学校跡、戸倉中学校跡、防災対策庁舎跡などを案内していただきながら話を伺いました。
南三陸町では、1960年のチリ地震津波の経験などから、地震が起きたらすぐに高い所へ避難することが意識されていたと阿部さんは言います。そのお陰で、海のすぐそばの低地にあった志津川小学校は津波で流されてしまったが、全員が高台に避難して助かったそうです。ただ、家の中にいて動けなかった高齢者など、少なくない方は残念ながら犠牲になったとのこと。(左奥のダンプが見えるあたりに志津川小学校の校舎があったそうです。戸倉中学校から見た景色。更地に見えるところには住宅があったとのこと)
画像また阿部さんは、海から20mの高台にあった戸倉中学校の前では、付近の漁民が、地震の後、海の底が見えるほど潮が引いたのを見て、これはとんでもない津波が来ると、皆で山に避難したが、忘れ物を取りに戻った男子生徒が後者前の階段で転び大腿骨を骨折し、介助していた先生とともに津波に飲まれてしまったと語りました。
画像南三陸町防災対策庁舎跡は、想像を絶する津波の物凄さをむき出しの鉄骨だけの姿で物語っていました。報道でたびたび紹介されていますが、避難を呼びかけ続け犠牲となった南三陸町職員遠藤未希さんたちを思うと涙がこぼれました。同級生一同、線香を手向け冥福を祈りました。

画像阿部長記さんと別れた私たちは、次いで石巻市の大川小学校後に向かいました。
児童74人と教職員10人などが津波の犠牲になった大川小学校の悲劇は、津波を侮ってはいけないことを教えているように思います。北上川河口から5km離れていたことが、判断を遅らせたように思います。学校から約200m先には、十分に逃げられたと思える山がありました。余りに悔いの残る大きな犠牲であったと思います。

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